「神の言葉を聞く」という一例。

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僕の父は寡黙な人だった。
しかし、騒ぐときは徹底的に騒ぐたちで、
それを題材にした夢を見た。

夢を振り返って父から学んだ「神の言葉を聞く」という行動を文字起こししてみようと思う。

父は東北の出身で、東日本大震災があった。
夢の中では、その前の震災の津波に東京であっており、それをサバイブした冒険譚のような夢だった。

まったくメチャクチャである。
さすが夢。
存在しない震災を経験したことになっている。

父は夢の中では上野で被災した。

上野の川の近くで(上野に川なんてあったか?)被災し、川沿いに流された。
そして、沈んでいないサーフィングボードレンタル店でボードを借りて第二波以降の津波に乗り、
サバイブしたという話だった。

上野には自販機があった。

そこに、ラーメンが売っていて、自動で作ってくれる珍しいもので父は見とれていた。(父の話に自分が体験しているような気分になっている夢の中の設定だろうか)
そのとき父は神に「近くのサーフィングボード店に迎え」と天啓を受けて、
おいしそうなわかめラーメン(そういうカップラーメンが父は生前好きだった)をよそに、
サーフィングボード店に向かい、そこで津波第一波にあう。

そして、命からがら高台なのか冠水していないサーフィングボード店につかまり、
そしてそこで無断借用したサーフィングボードを借りて、第二波以降をサバイブする。

そんな時に天啓があったことを自分があったかのように夢の中で話を聞いていた。
そしたら、父がまだ家がクリスチャンファミリーとして幸せだったころのように、夢の中でみんなで祈る時間をとった。親父が音頭をとる。

クリスチャンの祈りは暗い隠れた静謐な場所で行われる。
うちの場合それはダイニングだった。

暗闇に思いを巡らし言葉を探し、「授かる」ように言葉を探すように選び、祈る父。
「天の声を聴く」という感じだ。

映像化したい。

そして、震災を生き抜き、僕らが生まれたことを祝福する。

そんな夢を見た。

いま、僕も「本当の祈り」を生々しく思い出しながら、「神の声を聴く」ように夢を思い出し、
書いている。
僕には神秘的な経験を聞かされる貴重な想い出のように夢の中で出てきた。

これを読んでいる方はどこからどこが夢で、妄想で、現実かわからないかもしれない。

クリスチャン、精霊を賜った者は「異言を話す」という概念を唱える教派が存在すると昨日の教会の説教で聞いたことも関係あるかもしれない。クロスロードインターナショナルチャーチのけんたろ牧師だ。

異言とは何語でもなく、しかし誰にでも伝わる不思議な、「聖霊のたまもの」のような感じのようである。
主にとってそれが真実かは俺のこの先の人生でそれを見るか体験するかによるだろうが。
今まで40年経験はない。何言ってるかわからないと言われたことはある(笑)

まあ、とにかく、今振り返れば、
うちはクリスチャンファミリーとして成立していることがあった。思い出した。
それぞれの誕生日にはクリスマスケーキのキャンドルを囲みながら、一人一人祈っていき、
自分の成長度合いを親に発表しているような時期だった。

目に見えぬ神の代わりを、親が果たしていたのだろう・・・
恵まれた想い出を一つ思い出した。
またこの文章を思い返し、思い出で父を惜しみ、母を敬うために今書いているのかもしれない。

こんな荒涼とした荒唐無稽な夢を記事にする今の僕の状態も、「神の声を聴く」という状態かもしれません。

ここに賜物が残りました。

いま夜中の二時に飛び起きてしたためております。

昨日はエナジードリンクを3本飲んで、1日上限の400mgまでギリギリ取りながら、
教会の説教を聞いたり忙しく立ち回った。

「夜寝ているときに頭が整理される」と聞いたことがないだろうか、それを神秘というのも言い得て妙だなと座布団一枚もらいたい気持ちである。

ではエナジードリンクでも飲んで音楽を聴いて、明日の仕事に備えるか。

いまから寝なおしたら、多分寝過ごして遅刻する。

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