今のぼくの願いは、「みんな、何らかの信仰を持ってほしい」ということです。

宗教
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日本人なら、実家の仏教の宗派を知るってのをやってみて、徐々にその教えって何だろうとか調べてほしい。無宗教は善悪を周りに何となく合わせるわけで、そんな自由になってしまっていいのだろうか、と思うことが人生の中で出てくると思うんです。

例えばなにがしかのアーティストを崇めていたとする。そうすると、それを純粋に楽しみたいという気持ちがあると思います。しかし、それが悪に傾いたときに基準があいまい。
そんなに大事にしていたものを簡単に捨てたり、一緒に悪に染まったり、自由過ぎません?
ちょっと「大人」と言えるのか怪しいと感じます。

そのアーティストは何を考えてるか、どうしてえぐいことを始めたか、それを考えて、
ファンレターで「よくないと感じた」とか、「なにが基準なんだろうと心が離れてしまいかけています」と送ることで血の通った関係を築く、それもとてもいいことだと思いませんか?

そういう深さの基準に、信仰があるとき、過去の黒歴史が減ったり、正しいと後で思える選択ができたりするんだと思うんです。

極論言えば日本人の多くが話にも出すのを避ける、もしくはけなす宗教を知ることですが、
アジア、イスラム圏、中国、モンゴル、ロシアを旅したグルジエフとかいう人類学者は「人類は神を求める本能がある」ということです。

身近な人が突然死んだ人が、「神も仏もない」という言葉を突然言ったりしますね。
キリスト教の神は少なくとも日本語聖書では厳しいです。

神は与え、神は奪う。ユダヤ教からの神を表現した言葉ですが、このころには父なる神と人類をとりなすイエスの存在が明らかではありませんでした。

イエスはあがめようとする弟子に「友よ」と言いました。

神の子として信託を受け生まれましたが、このような態度でもあったため、
アメリカの若者などはかなりイエス様を友達のように思っていて、

日本人は聖書を知るほどに、神として恐れる違いがあり勧めづらさを感じています。

こういう世界観がある一方、サブカルを信奉する怪しさ、カリスマに群がる心理からだと思います。
資本主義に踊らされてしまっているだけで、善も悪も完全に本能で決定してしまっているんですよね。果たしてそれでいいのか。

宗教とは葬式で金をとるビジネスに日本ではなってしまっていますが、
生活や成長をいいものにするものです。

道徳にも似てるんですが、人生をコミットするステップがやはり来てしまいます。

仏教でいえば出家する覚悟が洗礼に必要になる気がしますし、
親が無宗教で、宗教に関心を持つことは体面にも関わることですね。

仏教は何千年か忘れましたが、キリスト教も2000年以上の歴史があり、
深く、難しいのが実際です。

でも外国人に日本人が幼いと言われるのはそのコミットを一切していないからと思うんです。

お金ではないですよ?(笑)

教会での礼拝ではプロテスタントでは献金袋が回ります。
それにお金を入れるのは「任意」と説明がないのも悪いという神学生の意見もあるし、
教会員になれば完全な任意になってしまうと巨大な寄付組織がない教会は立ち行かなくなってしまいます。

そして、クリスチャン同士でも認識の違いがありますし、(あらゆる組織がそうだと思いますが)間違いも犯します(人間だもの)。

たくさんの教会が、教会に来れない教会員のためからYoutubeをやっています。

僧侶は文化とともに伝えている気はしますね。新興宗教もやっているのが難点ですが。
新興宗教の危うさは歴史の浅さです。
妥当と違う時代の人がジャッジできる水準がなく、カリスマに頼りがちです。
歴史が浅いからこそ敷居が低くて、理解が楽で、染まってしまうことがありますね。

実際行くより、安全安心に知ることができるようになっているので、ぜひいろいろ見てみてください。

実家の檀家の宗派のお寺神社でもいいです。

信仰で人生が輝きますように。

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