悪夢はその中では合理的である
久しぶりにまっとうな悪夢を見た。
神が怒っているような夢だ。
昨日7万円のギターを衝動買いした。
それへの罰じゃないかというような、心臓に悪い、胸を圧迫されるような夢で覚えていない。
しかし、愛のような優しいもので包まれた悪夢だった。子供のころの悪夢はこれだった気がする。
フロイトなど古い時代にさかのぼり夢判断の本を読みたくなる。
悪夢を覚えていないのは知覚的現実に依拠していなく、理性的につながっていないため記憶できないと推察するが、幻覚は病的思考様式を患者に残し、脳に焼き付く。論理的文脈に変化をもたらす。
現実の認知に変化をもたらし、「了解不能」となるのだと思う。
「病識に欠ける幻覚」とは
僕が昔、白昼に見た「幻覚」は心臓に悪いどころではない。
体が切り裂かれるような「恐怖」というより「理性を試される」ようなものだった。幻覚は「理性への挑戦」「理性の危機」である。
パウロは神の次元にあげられ、人間には語ることの許されていない言葉を聞いたと言うが、(新約聖書)「神に触れるような」恐怖は、どのようなものか形容できない。
不可知というのも正しいのかもしれない。
しかし、統合失調症の幻覚は患者の理性が破綻していく。
幻覚を夢で見たら、起きたら「俺は狂ってしまったのではないか」と思うようなものかもしれない。統合失調症はこれが日常化し、非合理性に慣れていく。いや、これは短絡的推測なのだが、生活の思考様式が病的になり、危機感は感じても「非論理的と感じていない」「病識に欠ける」状態となる。
恐怖を感じるきっかけがよくわからない、そういうものをどこから脳が発想したかわからないような非合理さだ。
不可知という点で似ているが、秩序のあるなしが違うと思う。
合理的、優しい悪夢は親の怖さに似ている。心臓を圧迫するが、優しさを感じる。
とりあえず神の慈悲と警告ととっておこう。
「了解不能」な世界は嫌いなのに、高みに達すると「了解不能」になってしまうのかもしれない。