聖書は、その箇所を書いたとされる人がたいてい特定できてきてもいます。
神を恨まずに書いた人の評価や、訳した人へ不満を持っていけば、
神様との関係を保てると思います。
「え?特定してまで聖書読みたくないけど」って人も居るかもしれませんが、
悩めるクリスチャンには、聖書の書かれた歴史や文化的背景、もしくは別の訳を見たらすっきりするということがたっくさんあります。
新約聖書はマタイの福音書、とか「あーマタイさんが書いたのね」と分かるものもありますし、
コリントなどは地域の名前で、最初に「パウロがコリントのだれそれへ送ります」ということがわかります。
伝道者の書、別名コヘレトの書だったでしょうか。
すごい女性をわるく書いているところがあって、女性蔑視を増長させている気もしますが、
ソロモンが書いたということが有力で、ソロモンが女性関係がすごかったということも分かっているらしく、ベテラン読者からすると「そりゃソロモンからしたらね~」と個人的には笑ってしまえる箇所らしいのです。
僕・・・伝道者の書をみんなで読んでいるとき、最初は「なんてはかない悲しいことを書いてるんだ」「気が滅入る」と何回か休みましたが、この「ソロモンが書いてるからね~おそらく~そらそうだ」って笑ってるベテラン読者さんの意見でかなり好きになりました。
聖書の魅力は、不完全と知れている人間を介して一生懸命書かれてきた、というところにもあります。
本当に清廉潔白で、神様ひどいよね、って部分もありますが、聖書全体で読むと整合性が取れてきています。ぼくは。
これを書いて満足している、それを自慢げに書いてる僕も、高飛車で不敬虔で不完全です。
神の領域と聖書でされる、第三の天というところにパウロがあげられる箇所が新約聖書にありましたが、(確かコリントのどこか)そこでは人間が語られることの許されない言葉があふれていた、と描写されていたのを思い出します。
それを人間に伝えるために、不完全な同じ人間を通してまとめてもらえた、それが聖書と思います。
イスラム教のコーランやいろいろなものが世界にはありますが、お経とかもかな。
真理に迫りたいという欲求やなぜこんなことが、という嘆きからの叫びも聖書には出てきます。
そしてキリストは、そのような争いや涙、悲しみを拭い去ってくださると黙示録21章7節あたりに書いてあったと思います。
キリスト教式の簡易な法事で僕が司会をやるのですが、この希望の部分で悲しみを喜びに少しでも変えたいと思っています。
いやはや、そういうことが聖書を読んでいたり、グループでいろいろ学んでいるとできるんですよね。良く生きることができるんです。
それこそが宗教だと思います。
しかし、あまりにも熱狂しているとまずいことをしてしまったりするので、こじんまりとやっていますが。
まあ・・・学力低下で本も読めないところで、聖書はいろんな箇所があるので、乱読してリハビリしてよくなったから、こんなに執着しているということかもしれません。
でも、不可知というのは、前述のパウロの手紙にも書かれていたように、真理は語ることが許されていないわけなんで正しいのですが、果たしていいのでしょうか。
なんだかんだ願う、感謝する、それが人間同士だけだとなんか窮屈な気がしたのでした。
神様と歩むのいいぞ。