不可知論者は理性を重んじているように感じる。
キリスト教の「神の子」「神の国」は異次元性などから絶対視され、
元不可知論者に近かった僕からは、「カルト」的危険性を感じてしまうのは分かる。
「異次元性」から様々に勧誘された人に悪影響を及ぼす「カルト」を警戒していることもあるだろう。90年代からのカルト宗教の犯罪の歴史があって、「不可知なもの」に近づこうとすることを避ける。
しかし、キリスト教の中で神が提示する「不可知」は「人間には語ることのできない言葉が交わされている」神の次元の提示もあって、「不可知なものが危険」とはいえないのではないのだろうか。
神の秩序はあるとされている。人間の身で理解できないだけである。
正しい聖書の読み方は「理解できない神を恐れる」という敬虔や謙虚を勧める。時に強さを、弱さを赦し、包摂する。民主主義とは「神の正しさを肌で知る人間の理性に賭ける賭け」に過ぎないのではないかと思う。
すべて、秩序は正しいという前提で話している。
聖書は生き方、考え方、姿勢を提示している。
不可知ということは聖書の中で「語られることの許されない言葉が交わされる天」と一言で示されている。
秩序を尊重しない属性の不可知論者の危険
(加筆中)