私は、ある牧仕の人の言う、ポルノを見るのも罪、罪は殺しも陰口を言うのも神の前で同じ、という言説に対して、「たしか、罪と対価の多寡をイエスが述べている部分があったはず」と、聖書を探そうとした。
しかし、どこの箇所かたいてい見つからないので、普段はGoogleで書いてあることを目指すのが習慣だったが、自己弁護のために必死で聖書を取り出していた。
信仰とは神への信頼である。イエスが、神に当たる者であることを示す聖書個所を開いた。
使徒行伝26章あたりである。
パウロがローマ皇帝の前に裁判にかけられる前に、イスラエルに留置されていたときに、
光に打たれ、聞いたことが書かれていた。
原典に正確と認識している岩波訳(岩波書店 改定新版)である。
明確に奇跡を起こし、光としてパウロを打ったものがイエスと名乗ったところである。
厳格なパリサイ人であり、イエスを迫害していたパウロが回心したきっかけの光の中でのことである。
「罪びとが自分の罪はもっと軽いはずとっ聖書を読んでもしょうがない。イエスを信じよ」と言われている気がした。
仕事前なので続きを読みたいので筆をおくが、イエスキリストこそが救い主、そう告白してみたところである。
続きを読んだ。
パウロは罪に値することを何もしていないとアグリッパに認められ、むしろローマ皇帝への上訴によって、留置されているだけで、それがなければ釈放されていただろうにと言わしめます。
神の栄光を明かすために監獄にとどまったパウロ。のちにキリスト教が国教となったローマ帝国。
運命を感じずにいられない。